2020年4月19日(日)開催予定のギャラリートーク「写真と染のまじわるところ」が、新型コロナウィルスの影響で中止となりましたので、出品作家から頂いたコメントを掲載しております。
2020年4月19日(日)開催予定のギャラリートーク「写真と染のまじわるところ」が、新型コロナウィルスの影響で中止となりましたので、出品作家から頂いたコメントを掲載しております。
私の作品は制作の過程に写真を取り入れることが多いです。今回の展示作品の中だとアルミホイルにドローイングしたものを撮影して、その写真を設計図のようにして染めている作品があります。モチーフを撮影する時に光の当て方を調節して撮影するのですが、それはのちに染色に置き換えた時の染料のにじませ方や濃淡を想定していて、明暗を意識しながら撮影しています。
写真における光の階調の表現が染色の液体的な部分と親和性が高いと思っていて、それが写真を取り入れている理由としては大きいです。
手描きの図案のように線的な捉え方で、それを下図に起こし色分けして染めていくというよりは、写真の光の階調という特徴を生かして、その場の空気を捉えて、それをそのまま布に写しとれないかというのと、目の構造に似ているカメラという機械が一旦目の前の世界を切り取るんだけど、目で見えている世界と違う見方を映し出してくれるのも面白くて、それが制作のヒントになったりもしています。
また写真と染色は形態の類似性もあります。通常プリントした写真というのはフラットで2 次元の媒体ですが、その中にさまざまな奥行きを描き出すことができます。染色も布を染めていってもどこまでもフラットでマチエールとかがないですが、その中に空間や奥行き、時間の流れとかを出せないかと思って制作しています。その上で布は写真と違って可変性が高いので、空間に吊したり床に置いたりすると自然と3 次元の形をつくりだしてくれます。2 次元と3 次元のあいだのような存在だなと思っていて、写真との類似性を意識しつつ、空間に置いた時の存在など、より広がりのある表現を探っています。
私は型染めやロウケツを学ぶなかで、「染める」ということに当たり前にふれてきましたが、近年の作品ではその「染まる」という現象そのものから生まれるイメージに焦点をあてて制作しています。今回展示している作品で用いたデジタル捺染は、「染料が浸透してにじむ作用」を抑えることで細かな図像がプリントできるものですが、そこに色が浸透する「染まる」現象を持ち込むことができないかと実験的に始めた制作が、今回の作品につながっています。
プリントの場合は、基本的に片面にしか染料がのりません。今回壁面に展示している作品《unknown moments》では、布の裏面に図像をプリントして、水を吹きかけた部分だけ染料を浸透させています。デジタル出力なので写真を素材にすることもできたため、素材のひとつとして写真を扱い始めたことがきっかけですが、「写真」に含まれる時間性や、空間的な奥行きも一緒に取り入れることができるのではないかと思い、この技法では写真を使うようになりました。布の裏面、作品の画面としては向こう側にある図像が、浸透してこちら側にひっぱられてくると同時に、染料がにじんで形が崩れていく、その「はっ」とした瞬間に消えていく記憶の存在や、触れられそうで触れられない誰かの存在を重ねてみることができればと思っています。
天井から吊り下げている作品《1 つのすべり台/ one playground》は、布の両面に別々の写真をプリントしていて、水をかけた部分だけ両側の図像が浸透して混ざり合っています。これは《unknown moments》と同じ現象を使いながら、絵遊び的に取り組んでみました。片面はすべり台の右側から、もう片面は左側から撮影した写真をプリントしているので、水を吹きかけた部分には「右側」と「左側」が重なり合った「1つのすべり台」ができあがり、周りの景色は、混ざり合っているという構造です。これは、京都のまちで見かけるすべり台のうち、同じような形のものがたくさんあることに気づいて、写真を撮り出したことから取り組んだ作品です。
写真は、カメラを通して得た光の痕跡であり、鑑賞者と被写体との間に撮影されてから現在までの「時の往復の経験」を引き起こすメディウムでもあります。写真を分断可能なレイヤーとして捉え直し、1㎝×2㎝の数万枚の布のピースで再構築しています。ピンセットで慎重に重層的に蓄積された布のピースは、光の乱反射のなかに像を現前させます。それは、膨大な時の感覚ー現在から過去の時空間のなかで、みえるようでみえなくなってしまった人々の存在です。たった1枚の写真にしか生きていない/生き永らえない人々、モノやコト、記憶や感情、いのちもまた然り、人類は誕生と消失/喪失を歴史の中で繰り返してきました。私がこれらの写真を見つけた時、被写体の存在の危うさからか作品を創らなければならない感覚に迫られたのです。
国家や国、世界の中で生きるモノや人、各々の関係性、存在が─膨大な歴史のなかで「全ては遺物となり時のなかで消えと現れを繰り返す」。
そして、そのことこそ“確かに過去に生きていた人々の存在の証明” である。
写真との関係 ~イントロダクション~
染と写真を特に意識して始めたわけでなく、10 代前半の頃、音楽に興味を持つと、手に取る雑誌やレコードジャケットには当たり前のように写真が使われていて、レコード店に行くと様々な写真が目に飛び込んできました。また、情報の無い、その時代、雑誌の片隅に掲載された、気になるアーティストの写真は、画像が荒く、ぼやけて、小さくても誌面に穴が開くんじゃ無いかと思うほど、何時間も眺めて、まだ聞いたことの無い音楽を想像していました。そんな、強い思いがある写真から、カメラを手にした20 歳の頃、自然と友人のステージを撮影するようになって行きました。
大学では、型染を専攻していましたが、周囲ではシルクスクリーンや絵画でもスーパーリアリズムが流行し、自分のしていることは時代に逆行しているかのように感じました。
それは、それで見つけることも手に入れることもたくさんあり、充実していました。
ただ、作品にはもっと早く時代の動きや、あふれ返る情報なんかを取り入れたい欲求はありました。
型染からシルクスクリーン捺染に技法が変化してきたのもそういった欲求と、染色で写真を使える技法を当時探していたからです。
技法が先にあった訳ではなく、写真を使いたい欲求が非常に強かったのが大きな理由です。
それは、今も変わりません。
また、作品のイメージやコンセプト、使用するモチーフにも、リアリティが欲しかったですし、自分の身の回りに起こっていることや、その時代を切り取りたいと思っていました。
瞬間が手につかみたい欲求です。今もそれを追いかけています。
もう少し、染色のことに関することになると、常に、意識しているのは、染めないところ、生地白、地色をどう使うか。「防染」に限ります。素材1 つかえるだけでも、見え方は変わりますし、染料や顔料の使用によっても作品の見え方、仕上がりは変わります。
描いて、画面の前に表現したいものが出てくるのではなく、画面の奥にも表現できる(感じさせる)世界を追求できるのは、染色表現の強い魅力だと思います。
型染を専攻していたことが、染色にこだわる根幹になっています。
<染色における「写真・デジタル表現」の出現>
「絵を描くように多色で模様を染めたい」という人々の欲求が、染色技法の歴史を作ってきました。なぜ技術かというと、布の上に模様を表すためには「防染」という概念が必要だからです。加えて、染色技法は、その土地の風土と入手できる染料と知恵から生み出されたものです。長らく続いた天然染料の時代から、化学染料に変わって約150 年、私たちは多彩な「色」を享受しました。欲しい色は簡単に手に入り、色の楽しみを知った時代でした。
しかし一方では、河川の汚染や大量生産大量廃棄と同調したことも事実です。そのような時代を経て、環境に負荷をかけないものづくりを目指し、欧米の染料メーカーは、化学染料の生産を抑え、多量の水を必要としない方法にシフトし始めました。それがデジタルプリントの世界です。時代の趨勢だとも言えるでしょう。
<私が「写真・デジタル表現」を使う理由>
デジタル表現は、いち早く染色業界にも普及し、私の制作の地平をも広げました。かつて私は作品制作にスクリーンプリントを多用してきました。その理由は、形や色が明快で、量産にも応えるという近代の思考に合っていると思ったからです。作品だから1 点モノでなければならない理由はありません。染色は多くの人のためにあるものであり、染色は時代の要請で発展し変化を続けてきた世界です。時代に合った技術を探ることは私にとっては当然なことでした。
また、もう一つの理由は、思い描いたイメージ通りに染められることでした。大量でも少量でも、生産量に縛られることなく制作でき、迅速で、安価であることも魅力でした。着手し始めたのは2000 年です。それまで、作品の原画はもっぱら絵筆を持って画用紙に描いていました。 PC を使い始めた頃から、図案をスキャナーで取り込んでデータ保存することを始めました。図案の劣化を防ぐことが目的でした。次第に保存した画像をソフトで加工することも覚えていきました。形や色を触ることで、画像が瞬時に変わるさまも面白く、のめり込みました。フォトショップというソフトにはコンテンツとしての写真や効果や道具があらかじめ組み込まれています。便利ですが、これにはちょっとした警戒感を覚えました。手仕事を知っている者としては、この方法はちょっとまずいと確信しました。ステレオタイプのデザインが世の中に溢れ、つまらないことになるかもしれません。便利さには落とし穴もあると。このようにデジタル表現には図案に関する制約というものがありません。かつては布の上に実現したい絵でも、染色技法に縛られ、できる表現とできない表現がありました。型には型なりの、友禅には友禅なりの決まりごとに則っての絵心が必要だったのです。それは不自由でもありましたが、結果的に作品の魅力にも繋がっていました。そう考えると、何でもできるデジタル表現という技法はどんな絵を望むのでしょう。そのことについてずっと考えてきました。デジタルだからこそ「制約のなさ」を最大限利用しようと思い、微妙な色彩ニュアンスを持つ水彩画を描きました。これを大型スキャナーでスキャニングして、データとしてPC に取り込みました。プロダクトだけではなく、作品にもこの技法を使い始めました。手染めとスクリーンプリントとデジタルプリントを共存させた作品です。当時、デジタルプリント技法は染色の領域ではあまり肯定的には扱われていませんでした。作品を発表するたびに「なぜデジタルプリントを使うのか」を尋ねられました。なぜならデジタルプリントは、染色界にとっては、業界を荒らす危険な存在でした。従来の注文を減らし、職人さんを追い出し、工房を閉鎖させ、従来の染色品の生産と流通を阻害するものでした。その点は辛いものがありましたが、時代の趨勢は明らかでした。私の気持ちもはっきりしていました。私は手仕事ではできない新しい表現力を持つ新技術を使いたかったわけですし、「本物に限りなく近づくことができる、しかし本物でない技術」に面白みを感じてもいました。過去の技術も今の技術も取り入れるという考えで続けてきました。20 年を経て、デジタル表現について否定的な考えを持つ人も少なくなりました。時代は早いスピードで動いていると言わざるを得ません。
デジタル表現は、イメージの構築が命です。写真が必要な場合もありますし、アナログで描いた絵画が必要な場合もあります。WEB 上の画像コンテンツやソフトに備わっている道具や効果だけでは、いいものには到達しません。
簡単にできることは結局どこかで見たようなものになってしまいます。誰でもできる技法だからこそ誰にでもできないデザインを考えることが必要です。そういう意味で、私にとって、楽しいけれど難しい技法でもありました。手がけ始めて20 年近くになりますが、まだまだ未踏の領域がありそうです。ハードはますます進化するでしょうし、今後も避けることができない現代の染色技法であることは間違い無いでしょう。
<出品作品の解説>
「カレイドスコピック」について
このインスタレーション作品は、2018 年に制作したものです。ギャラリーの企画テーマが「クリスマス」でした。ちょうどその頃東南アジアに作品イメージの画像を求めていた時期でもあって、ベトナムやタイのたくさんの植物の写真が手元にありました。南半球のクリスマスは12 月ではなく、6 月にするというエピソードも知り、赤道直下のクリスマスをテーマにしてみようと思いました。デジタルプリントで熱帯の濃い緑の植物群が万華鏡のように展開するクリスマスのイメージです。
写真をPC に取り込み、フォトショップで画像を加工します。トリミング、変形、回転、拡大、縮小、ゆがみ、カット、ペースト、塗りつぶし、レイヤー、色調補正などで、上下左右にスクロール機能を使いながらリピートをつけていきます。
ソフトが備えているたくさんの機能のなかでは、シンプルな画像の変換だけですが、それだけでもイメージの変容という期待に答えてくれています。展示はドレープを取りつつ会場の壁面を覆うようにセットします。ポリエステルオーガンジーの透け感を生かして、2 枚をレイヤーにしています。投影している100 枚ほどの映像は、この作品を作る元になった写真です。
「エクストリームフラワーズ」について
デジタルプリントが終わってから、手作業を加えることもあります。会場両サイドに展示した軸「エクストリームフラワーズ」は顔料でのハンドプリント、金箔押し、手描きなどを経て、軸に表装します。データ加工を重ねることで、刺激的な植物を作ろうと思いました。金箔や顔料によるハンドプリントで画面に厚みを加えたのもそれが理由です。
軸装は表具師さんに依頼します。上下の布だけを用意しごくシンプルな部材で軸装をお願いします。作品部分の裏打ちはしません。この方法は全体を裏打ちする表具とは異なり、巻きグセがつきません。
<私見―染色文化の今後について>
染色の長い歴史の中で、辻が花や友禅という技法が徐々に姿を消してきたように、スクリーンプリントという近代の技法さえも、工場や関連業種は減り、今や風前の灯かとも思われます。このような現実をどのように納得し、日本の染色技術の未来についてどのように考えるべきでしょうか。技術革新による技術の自然淘汰は、歴史の大きな流れの中でやむを得ないことだとしても、日本の染めの多様性と豊かさに気づいたなら、その技術を活かす努力も怠ってはならない気がします。アジアの東端に住まう私たち日本人は、高温多湿というその風土の恩恵を受け、歴史的に多くの染色文化を持ってきました。自生する植物染料も多く、自然から得られる色彩は豊富です。発酵を生かした藍や柿渋の利用も日常的でした。染めの国日本が生み出してきた多様な染め技法、それぞれが持つ魅力を知り、再認識しなければなりません。最前線のデジタルプリントの恩恵を受けつつも、たとえシェアは小さくても染めの多様性を大いに楽しみ、先端技術と伝統技術の共存を染色文化の中で生かしたいものです。
デジタル表現や写真を積極的に使い、イメージの操作を楽しんできた私です。しかし、今の私の関心は、スーパーアナログなことに向かっているようにも感じています。それはデジタルなものからの揺り返しのようにも思いますし、年齢のせいかもしれません。自分で作った干し柿に舌鼓をうち、風土と時間がもたらすゆっくりした現象に、いまさらですが気付き、喜んでいます。